おもひ川渡れば叉も花の雨
なんだか、安物の演歌の様な感じがよいです。
今、句会でこの句を詠めば、そんな風に主宰先生に指摘されるでしょう。
もちろん、虚子の時代には、演歌も歌謡曲もこんなタイトルはなかったので、こちらの方が早いということでしょう。
おもひ川という川が実際に存在したのか。それは、別として、やはり、心象風景の中に出てくる川なんだろうと思う。
「渡れば又も」とあるところから、この川を何度も渡っているのでしょう。
そうして、その度に花の雨が降っている。もちろん、「花の雨」というのが季語ですが、「おもひ川」に見事に呼応しているのが良いですね。
そう考えると、おもひ川というのは、花の季節の度に渡る川なんでしょう。花見にいくとき、かならずおもひ川を渡る訳で、その時には、花がいつも散り始めている。
「おもひ川」を象徴的にたとえれば、それは、人生の春、青春のほろ苦い想い出であるということ、つまり、若き日の恋、そういったことを想い出してみれば、いつも「花の雨」、つまり失恋というイメージが浮かび上がってくる。
櫻の季節になる度にそういったイメージを作者は想い出すのでしょう。
佳い句だと思う。
なんだか、安物の演歌の様な感じがよいです。
今、句会でこの句を詠めば、そんな風に主宰先生に指摘されるでしょう。
もちろん、虚子の時代には、演歌も歌謡曲もこんなタイトルはなかったので、こちらの方が早いということでしょう。
おもひ川という川が実際に存在したのか。それは、別として、やはり、心象風景の中に出てくる川なんだろうと思う。
「渡れば又も」とあるところから、この川を何度も渡っているのでしょう。
そうして、その度に花の雨が降っている。もちろん、「花の雨」というのが季語ですが、「おもひ川」に見事に呼応しているのが良いですね。
そう考えると、おもひ川というのは、花の季節の度に渡る川なんでしょう。花見にいくとき、かならずおもひ川を渡る訳で、その時には、花がいつも散り始めている。
「おもひ川」を象徴的にたとえれば、それは、人生の春、青春のほろ苦い想い出であるということ、つまり、若き日の恋、そういったことを想い出してみれば、いつも「花の雨」、つまり失恋というイメージが浮かび上がってくる。
櫻の季節になる度にそういったイメージを作者は想い出すのでしょう。
佳い句だと思う。