この庭の遅日の石のいつまでも
春分を過ぎると日が暮れるのが夙に遅くなってくる。だから、庭石の影がいつまでも見えている様子を句にしている。
「遅日の石」と季語を修飾形にしたことで、対象に季節感と主語としての役割が強められることになり、否応なしに、そこに視点が集中することになる。
「いつまでも」は、このままでは、曖昧な表現だが、主語が、「遅日の石」としたことで、「みえている」ということばが自然と導き出されてくる。
「この庭」というのは、何気なく付け加えられているようで、実はそうではない。つまり、「目が届く距離」を意味している。
こうして、この句は、全く曖昧な無駄なところなく、庭の日暮れの鮮烈な情景を余すところなく伝えている。