俳句結社童子の北柳あぶみさんから、句集『だだすこ』が送られてきた。発行元は童子吟社、句集叢書Ⅱ、定価1000円。
装丁は簡潔だが、表紙の絵の感じ。緑と黄色を中心とした配色が気に入った。なんか気楽に持ち歩けそうな気がして、昨日の午前中届いて、そのまま居酒屋へ持っていて、読みながら、一杯やっていた。
桃子主宰の序文も気が利いている。この人の文章は、場所をわきまえた書き方が見事で、これから句集を開こうとする読者にとってあたかも食前酒のような雰囲気を醸し出してくれる。
いや捨てやう
雪解けてイーハトーヴの現はるる
通常、「イーハトーヴ」は、「イーハトーブ」と書かれたするのだが、ここでは、賢治の書き方に従っている。まさに賢治の拘った作者の紋章のようや作品だ。春の喜びが簡潔に表現されているのがいいなあ。
春泥の寺に逃げ場のなかりけり
その前に「ふるさとや春泥かくもねちつこく」とある。作者のふるさとは、秋田県である。秋田の鄙びた田舎道は、舗装されていないのだろう。最近は、舗装されていない道路の方が珍しくなっている。春泥の句も詠みづらくなって来たが、ここでは、寺の敷地中、春泥で、どこを歩いてもドロドロになってしまうという状況なんだろう。面白い句である。
精神歌萩の声とも聞こえたる
賢治生誕祭全国俳句大会で、受賞された句である。賢治祭には、この精神歌をみんなで歌うことが慣わしになっている。土とともに生きて土とともに死んでいった詩人の心が、「萩の声」ともで表現されている。
おたまじやくし
おたまじやくしの句群は、他の章に比べて簡潔・内面を追求した句が多いような感じ。少しわかりにくい、観念の世界に作者の優れた才能が感じられる。
一木の裸となつて吹かれけり
この句は、観念的な写生とは外れた擬人化の句とみられがちであるが、実はそうではない。客観写生を突き詰めて、その要素を絞り込んでいった時に、「一本の裸」となった。練り込まれた佳い句だと思う。
縁側におたまじやくしを落としけり
おたまじやくしを飼っている子供が水槽から転げ落としたのだろう。残酷な感じもするけれど、おたまじやくしというのは、静かな時は静かなのだが、驚くとばたばたとふいに大きな動きをすることがある。水槽を動かそうとしたら、こうした暴れて水槽の外にはみ出てしまったのだろう。そういった情景が浮かび上がってくる。
テーブルをくぐりてきたる石鹸玉
しゃぼん玉等はありふれた遊びだが、1個だけなかなか割れず、魂魄、人魂のようにテーブルをくぐり抜けて現れた様子への意外な驚きが表現されている。面白い句だと思う。
この辻で雨が霰になりにけり
時間の経過と状況が簡潔化されている。雨が霰になるというフレーズは、よく使われるけれど、「この辻で」が、ここでは、その情景を際だたせている成功作である。
毛虫
山吹に一吠えだけや裏の犬
山吹と犬の取り合わせというのが面白いし、いつもよく吠える裏隣の家の犬は、山吹が咲いた日は、一吠えだけで行ってしまった。山吹の凄く派手な黄色なんだけれど、どことなく儚げなところが風情が上手に詠み込まれている秀句である。
つばくらめ合鍵三つ拵へし
燕が、玄関の上に巣を作ってしまった。そこから出入りすれば、燕やヒナが驚いてかわいそうなので、勝手口から出入りすることにした。普段は使われていない入口なので、家族の分の合い鍵まで拵えなければならなかった。あの「朝顔に釣瓶とられて」のセカンドバージョンの様な句、機転が効いた面白い句。
春の頭
砂風呂の砂から春の頭かな
「春の頭」というのがわかりにくいが、砂風呂に入っている人の頭なのだろうか。春の頭とは、果たして、どんな頭なんだろうか。ずんぐりした頭がニュキっと砂の中から現れた様子なのかな。
その人とつかずはなれず茸狩
何故、「つかずはなれず」なんだろうかと考えてみると、茸の知識が少ない作者は、熟練した人の側にいて、毒茸か食用茸が判断してもらう必要があるから。もっと散らばって茸を探せばいいのに、参加した初心者は、そんな理由から先達の側を離れることができないのだ。そんなユーモアを上手に詠んでいる。
波酔ひ
ひたすらにおたまじやくしにならんとす
またまた、おたまじやくしが登場しました。この句も判りにくい。卵の中で目を光らせて待っている幼生の様子なのだろうか。命の源の紐のなか孵って尻尾をプルプルと震わせて卵から抜け出そうとする様子を詠んだのだろうか。面白い句だな。
やどかりや捨てたる殻にまたもどり
やどからは、成長するとともに新しい大きめの殻を捜して歩くのだけれど、殻が見つからなければ、もとに殻にすごすごと戻ってくるのである。成長したい自分、でも前途の困難に怯えて尻込みする自分といった暗喩があるのかも。それだけだと、教訓的な感じするのだけれど、やどかりという比喩がなにやら哀しさを感じさせるので、この句は、窮地を脱して、佳句足り得たのだと思う。
波酔ひのまだ続きをる円座かな
船酔いというのは執拗なものである。ずっと頭が回転しつつある訳。そんな人たちが円座で座っていると、お互いの船酔ひの頭の回転と、となり、となり、またどなりと伝播して、また、自分に戻ってきて、ループとなって増長していく、そんな滑稽な有様が詠まれている。
増殖中
千年の杉の花粉を浴びてけり
僕は花粉症なので、こんなのごめん被りたいけれど、「千年の杉」というありがたさの中で、そんな嫌悪感が失われ、ただバサバサと花粉を浴びている。その感慨が、「浴びてけり」と詠嘆調で表現されている。姿形の美しい句である。
このところけんくわもせずに蜆汁
旦那さん、最近は、毎日酔って朝帰り、二日酔いで、喧嘩をする気も失せているんだろう。そういったことって結構、日常生活であるんだろう。蜆汁にしてあげる主婦の優しさもさりげなく添えられている。
沼の蓮中州の葦と枯れ合へり
この沼は、昔、川の流れの一部であったのがせき止められてできたのだろう。そんな隔たりにも関わらず、蓮も葦も同じ時期に枯れていくおもしろさ。季重なりがむしろ空間の広がりを感じさせるのがよい。
他にもすばらしい句が一杯、載せられているけれど、すべてを論じることもできず、ここに筆を置きます。