俳句界八月号の読者投句の雑詠で稲畑廣太朗先生の特選・首席をいただいた「フルトヴェングラー鳴りたる暮の春」の句、そんなに考えて作った句ではないが、フルトヴェングラーの指揮と演奏が暮春の長閑さに合ういうのが評価の理由だが、果たして季が動くのかという点が気になりました。フルトヴェングラーの演奏も多種多様。暮春の様な演奏もあれば、もっと晩秋の寂しさや、あるいは、シューベルトの冬の旅を思わせる風景の中で、残照が枯れ野原を照らしているようなブラーム交響曲第4番の二楽章演奏等もあり、一概には言えない。
フルトヴェングラーの指揮で暮春に合う曲となれば、限られてくる。ドイツの暮春「Frühlingsneige」であり、日本の暮春の様な気怠さはない。
ヘルマン・ヘッセの詩に次の一節がある。
栗の木の太陽を吸い込んだ影、
城壁に舞う黒い秋のチョウ、
飛び散る広場の噴泉のひびき。
酒樽匠の地下室へのアーチの入り口から漂ってくるワインの匂い。
故郷を失った男は、家郷にあることの、
友だちであることの複雑な魅力を、
街角ごとに、縁石ごとに、五感をあげてすすりこんだ。
ぶらぶらと疲れを知らず、小路を歩いて、
川ぶちで刃物の砥ぎ屋に耳をすまし、
仕事場の窓越しにロクロ細工師をながめ、
看板になじみぶかい家の古い名を読んだ。
彼は長いこと川べりにたたずみ、
流れる水の上に乗り出すように
木のらんかんにもたれた。
水中では黒い水草が長い髪のように揺れ、
魚の細い背が小石の上に動かずにいた。
古い板の橋を渡り、
少年時代にしたように、
小さい橋の微妙な弾力のある反動を感じてみた。
大人になる憧れを暮春の時期になぞらえて読んでいる。
少年から青年、青年から大人になる旅を予感させる。
句では、「鳴りたる」と読んだのだから、ある程度のレコードが音響を伴って聞こえてくる筈。
ワーグナーの神々の黄昏の中で、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」等がふさわしいか。
そこには一抹の不安も感じ取れる筈である。
但し、僕は、ラインの黄金は、フルトヴェングラーよりもクナッパーツブッシュ指揮のウィーンフィルの演奏を好んで聴いている。やはり、ステレオによる豊かな音響は捨てがたい。