2019年10月
水澄めり水面に映る弥陀の顔
シルクロードの絵画にみられる炎肩仏は、肩から炎の様な三角形の突起が生じて描かれた仏達である。しかし、この突起がなんであるかについては、あきらかではない。果たして本当に炎なのかという点である。仏の持つ生命力・威力の象徴して炎が肩から立ち上がっている様に描かれているとの解釈で、仏の生命力にも通じるものであるとされている。この様なコンセプトは、平等院の阿弥陀如来像にも活かされていると言われている。それは、光背の蓮華から放射する光があたかも肩から伸び上がっている様に見える点であると言われた。(佛教大学 安藤佳香先生)阿弥陀如来は、「光の仏」であるが、この光は、果たして、炎なんだろうか。阿弥陀の光が蓮華の生命力が結晶して放散された光と認識することは辛うじて出来ても、炎肩仏の「炎」と同様に捉えることができるのだろうか。仏教芸術の中での炎の描写については、最近の展覧でも話題になっている青不動の背後に燃える「カルラ火」が代表的なものであり、このカルラ火と北野天神絵巻に描かれた六道めぐりの地獄の業火との描写技法の類似性について指摘されているが、「罪を焼き尽くす炎」としての捉え方であり、「仏の生命力」、「阿弥陀の救済の光」とは、別物ではないだろうか。信仰心を包み込む光と邪心を焼き尽くす炎。この違いを考えてみることが浄土教美術なんだと思います。そこに往生要集の思想が表現されている。弥陀の光背の光の閑かさはさながら棲んだ秋の水の様な気持ちにならせてくれる。
秋暁やアフラマズダの肌の色
左脳に侵出した血腫を吸い出す為に頭蓋に穴をドリルで開けた。なんと局部麻酔なので全ての音が聞こえる。頭蓋に穴を開ける音は意外にも閑かだが、血腫をかきだす時のあの感じは酷いもの。鈍痛のような響きがする。しかし、手術が進行するにつれて全く麻痺していた左半身に再びスイッチが入り始めるのが解った。
九月十三日頃から症状が悪化し十四日には仕事の記事も書けなくなり、十六日に会社に仕事が無理であることを告げながら、食事や日常生活をしていたら、始終こけるようになり、窓ガラスを割り、吐き、それを掃除していたが、二十一日になって風呂場に入り身体を洗おうとしたところで動けなくなった。幸いにお湯が出しっぱなしで数時間。偶然に大津から会社の社長が神戸の家まで心配してきてくれて警察に通報して家に救急隊が入ってみると反吐だらけの家の風呂場の中で半身不随の私が発見された。後、半時間遅かったら命はなかった。
入院後、手術ですぐに回復して1週間の入院後退院。まだ、右手及び右足に軽い麻痺が残るが外からみたらややぎこちない程度であり、注意してみなければおかしな点には気づかないだろう。弟も同じ病気になっている。ときどき涎が口から出てくるのが恥ずかしい。