春の山屍を埋めて空しかり


虚子がなくなったのは、昭和34年の4月8日であった。この句は、同年3月30日に詠まれたもの。この日は婦人子供会館での句謡会に出席していた時に詠まれたと収載の750句に付記されている。

子規が自分のことを仏に喩えて句をつくった晩年と重ね合わせると、ここでは、自らの死を予感しているような感もある。もっとも、死ぬ1週間前までは、存外にお元気だったということだから、なんとなく、本能的にそのような境遇を感じていたのかも知れない。

春の山に屍を埋めるという表現は、かつて大日本帝國が1937年に國民精神強調週間を制定された時に作られた歌を想い出す。これは大伴家持の万葉集に収載されている長歌であるところの、

海行けば 水清く屍 山行かば 草生す屍、大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言ひたて 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子供ぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる 言ひ立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる(後略)


からとられている。この時代から平安時代に下るまでは、庶民がなくなると野山に放置するのが習俗であり、この日本の国土は、屍の匂いがところどころに養分となって染みついている。あの美しい桜でさへもその屍の養分によってあの様な美しく潔い花を咲かせている。


日々花鳥を友としている俳句人にとっては、常に屍と隣合わせである。埋められた己の屍が美しい草木を咲かせ、またまた、子孫を育むことになるんだけれど、そんなことを判っていてもやはり空しいという境遇を静かに詠んだ句であると思う。