花見










































拙宅から30分ほど歩くというか登攀したところに六甲山森林植物園がある。
そこでは、ちょうど今が桜の見頃だという。

もう、おぶの里では、見頃をとうに過ぎて名残の桜という気分である。

平安時代の貴族の花見は、まず、洛中の桜を楽しみ、ちょうど今頃になって平地の桜が終わりになった後は、山の桜をみる楽しみ方がある。当時の貴族の日記をみても、馬を駆り、時には、とまりがけで鞍馬寺の奥深くまで桜を見に行ったことが記されている。

源氏物語の若紫の巻に出てくる桜は、そんな平地では、とうに終わってしまっている時分の桜である。
山里で尼君にはぐくまれてなんら世間ずれたところがない幼い女の子なので、同じ年頃、つまり、洛中の少女に比べて晩熟であるという意味も暗喩として背景にある。

そんな風流な話を想い出しても、春の風邪を拗らせてしまって、呼吸もままならず、山桜を見にいくこともできない。

花見にと馬に鞍置く心あり

この句もちょうど今頃、山桜を見に遠出をしようとする気分を詠んだ句であり、古典的である。
芭蕉等も想起させられる様な作り方である。
「花鳥諷詠」の心と故きを温める心が、この句では交わっている。
晩年の虚子らしい名句である。