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童子関西句会の先達であられます、村杉踏青さんの句集をいただいてから半年が経ちました。
座右において常々、眺めていたのですが、その感想等を書いてみようと思っていたのが、ここまで延びてしまいました。ご免なさい。

踏青さんの句集で関心させられたのは、バランス感覚に優れた句が多いこと。また、少し距離を置いたところから眺めた写生の句が優れている。対象への思い入れも一歩離れて客観的にみようとする態度。さすが、医療という科学的な職業に従事されている人らしいと思いました。また、この人は、ユーモアというのを解する人であり、さりげなく込められた風刺的な心も、かえって句に深みを与えている。

そうそう、関西風の絶妙な薄味の出汁が利いた蛤のお吸い物の様な珠玉の句がこの本には並べられているのだと思います。以下、句集の冒頭から目についた句の感想を述べてみることにします。



1991年~1996年

アネモネの紫のゆれ赤のゆれ

アネモネというのは、実は色の動きを楽しむ花なんだと再認識させてくれる句。
写生句として優れています。

秋天を落ちてくるよなロープウェイ

ロープウエイは傾斜を移動するけれど、地上からみればその角度の錯覚で空から墜ちてくるように見える。そういった情景を上手に詠んでいる。

輪をくぐり消ゆるイルカや水温む

イルカの曲芸ショーの描写だが、輪をくぐって再び水中に戻っていくときにそのなま暖かい肌合いが感じられた。それを水温むに滑らかに結びつけている。巧みな句だな。


野分あと風速計の放心す

野分で狂った様に風速計が回っていたのに、今は、壊れた様に止まっている。それを放心という言葉で表現しているところが面白い。

神農の虎を診察室に置く

大阪の神農さんのお祭りをさりげなく描いている。一般人には、薬問屋街のお祭りだが、作者は、その当事者であるお医者様なのだ。

あの婆さん病院へ来ぬ師走かな

患者さんへの思いやりが感じられる。元気な筈の婆さんは、迎春の支度に忙しいのか、それとも風邪でも引いたのか。

茫々と青野寥々と石の群

茫々とした青野をいけば、やがて寂しげで冷たそうな石の群れに出会う。晩秋の情景がしみじみと感じられる句である。

山の湯の裸身ほのかに五月闇

山の湯と裸身を詠んだ表現は、ほかの作品にもあるが、これは、そこに五月闇を結びつけたのが妖しさが加わっていてユニークな句である。

深草少将の熱情欲しや龍の玉

龍の玉に少将の熱情を結びつけているのが、平安時代の貴族の精神につながるような。

終バスの去りて花野の暮れてきし

花野を逍遙していると時が過ぎるのを忘れる。ああ大変だ最終バスもでてしまっているよ。




町医者

菓子袋開けて叱らる初芝居

芝居が退屈なのでお煎餅かお菓子を食べようとしたら、たしなめられた。そんな何気ない風景だけれど、微笑ましい。

大渦の生まれてまた生る春の潮

実際に鳴門の渦潮をみていると一つの渦が収斂して、また、新しいの次から次へと生まれてくる。そんな情景が面白く表現されている。

しんきくさい祭どすやろ巡幸は

私も「しんきくさい」と祇園祭を思っている。京都の人だから見慣れている。それよりも、この暑さには参ってしまいます。

作り滝つひに燃え出す火山ショー

火山ショーで、最後に溶岩が流れて滝が燃え出す。よくみれば安っぽい仕掛けである。なんども同じのをみていると飽きてくる。そんな皮肉っぽい表現が楽しい。

春障子瀬戸内海に開きけり

瀬戸内の海端の旅館に泊まられたのだろうか。海に開くと言わずに瀬戸内海に開きけりと言い切ったところにこの句の良さがある。


渦潮や淡路の鳶と阿波の鳶

これも鳴門海峡での吟行句だろう。淡路側と四国側にそれぞれ鳶が舞って、漁師の獲物を盗もうと狙っている。面白い句である。

山若葉神戸は海の匂ふ街

素直に神戸の街の情景を詠んでいるところに引かれます。山若葉と海が匂うという取り合わせが秀逸。


わらび餅

この海の身の締まりたる浅蜊かな

浅蜊にもそれぞれの海の味が染みこんでいる。きっと潮の流れ冷たい海なんだろう。浅蜊の身が締まっている。

嶺々の氷河細りし花野かな

カナダで詠まれた句らしい。氷河が高いところから降りて来て、高度が下がると溶けて細くなる。そこに花野が広がっている。雄大な山の自然を詠んだ句。

冬籠二人黙してゐて楽し

冬籠、梅雨籠と、黙するというのは、よくある組み合わせてだけれど、最後に「楽し」と置いたところにこの句の良さがある。

蛤や明石の海の砂吐ける

浅蜊の句と同じような趣の句で、こちらの方が春らしい茫洋とした雰囲気がでている。

朧にて海鳴り遠き一夜かな

この句も朧という状況の中で、遠くで海鳴りが聞こえるという少しサイケな夜の海の状況が描かれているのがよい。

鱧ちりや祇園囃子が遠くより

関西人なんだから鱧ちりや。祇園祭の時期が旬なんである。

山墜つるごと万緑の迫るなり

この句は写生の域を超えている。心に迫ってくる素晴らしい句。


風見鶏

青蔦のまだ届かざる風見鶏

この家は、ずいぶん古いお屋敷なんだろう。下の方は、すでに蔦に覆われてしまっている。それが、上へ、上へと風見鶏まで届こうとしている。風見鶏に届く頃には、自分はどうなっているん

だろうか。時間の経過を感じさせる句。また、風見鶏という風に靡いて方向を変える存在を時間の経過と結びつけることで、その無常観というのを一段と印象づけることに成功している。

夏霧や巨岩の山の修道院

モンサンミシェルを詠んだ句。夏霧の覆われるという不思議な修道院である。記念写真、絵はがきの様な句ともみられがちだが、何かをそれを越えた画家の視点ともいえるものが感じられる句

である。

秋水や笙に従ふ婚の列

秋の婚礼、粛々とした厳かな雰囲気が表現されていてよい。

にこやかに亡き患者来る春の夢

やはり、亡くなられた患者さんの夢をみられるのだな。お医者さんという仕事もやはり、単なる技術的行為、診療を越えた人と人との心のつながりが感じられます。

ミユンヘンのからくり時計秋はじめ

からくり時計、それも本場ドイツのからくり時計をみていると、それは、いかにも初秋の趣きである。この地域の人は、夏の間は、農作業に従事し、シーズンが終わると、今度は、職人に早変わりして、からくり時計、からくり人形等いろいろな仕掛けを作る。アルプスの近い南ドイツの風景である。そこに牧歌的な夏の思い出が込められている。

竹の春百夜通ひの径ここに

深草少将の句はほかにも1句この句集に収載されている。この句は、熱情というよりもむしろ、清々しい竹の春の風景として捉えられているのが面白い。

素戔嗚尊を日本武尊を拝みおでんかな

神社詣の生真面目さが、おでんで惚けてみせるところが面白い句である。

東には葛城西は霞みけり

まるで蕪村の名句の様な作品だ。でも、ここまで居直られると、認めざるを得なくなりますね。

ほかにも名句が一杯ありましたが、これ以上は、書けないので筆を置きます。