201612242-01

父もまた待ち遠しきと曼珠沙華
白龍の御社冥し水澄みて
とりかぶと咲くや無人の家にまた
露草の疎らな庭にシャツ干して
宵闇に声かけられし白き手も

毎週、土曜日には往復4時間かけて父親の施設を訪問する。父親が毎朝、散歩をしていることは、携帯端末から発進される位置情報で把握しているが、1日たりともかかさず約30分間の散歩である。施設の東側には、猪名川(兵庫県と大阪府の県境)が流れる。一般的な散歩コースをその川西市側を上流までゆきそこにかかる絹延の橋を池田市(大阪府)に亘って、対岸を南下し、中橋(絹延の橋から1つ南側にある橋)まで来て、また、川西市に戻り、施設に帰ってくるというコース。時々は、中橋を亘って五月山まで散歩にいくらしい。五月山は桜の名所とされており、そのまま尾根づたいに北上して、東側に下ると箕面の瀧の側にいく道に降りる。父親はそこまではいかないが、近くの動物園がある辺りまで散歩して、山野草や木の実を採ってくる。また、中橋から下流に下ることもある。先日の台風の前夜、中橋の南側にある関の下側の川淀に川鵜数十匹、白鳥が数羽閑かに泳いでいたと言う。また、近くの小戸神社にもなんども出かけている。そこには、源満仲が放った矢が落ちて、当たった白龍がそこに死んでいたのでそれを祭った白龍神社の小さな祠がある。そこは、父親の若いとき、私が幼いときになんどもでかけた場所、父親の老人ホームは、再び遠く昔の生活環境に近いところにあるので、非常に父親は懐かしがって喜んでいる。
父親の毎朝の散歩の目的は、健康の為だというが、そのついで部屋に生ける花を摘んできたり、あるいは、句帳を持って様子をメモして部屋に帰って来て、俳句や短歌を毎日つくって楽しんでいる。父親が俳句や短歌が好きなことは、なんと、85歳になって施設に入って、毎週父親を訪問し、話をきくまでは知らなかった。ノートには、もう相当の俳句、和歌がしたためられていた。
それらをみてくれと言われていろいろと意見を述べてみたが、そうしたら自分の不勉強なことがよく判った。また、父親の様に近くでもよいから毎日散歩にいかないと駄目。父親が言うのは、「散歩にでかけるのは俳句をつくる為ではなくて、自然の心に近づくことが大事で自然の心に近づけばおのづから色々なものが見えてきて好奇心を持つことが出来て、それらをメモして、結果的に詩句にしてノートにとどめておくことになっている。」ということで、初心に返らねばならないと思った。父親の句はいずれ紹介するが全て写生句であり、なかなかのものであると思った。

解説

父親の介護施設がある川西市鶴之荘は阪急が戦前に開発分譲した高級住宅地であり、大きな屋敷が並んでいる。また、そこにもともと暮らしていた地主も区画の中に居住していて大きな土蔵などが今も残っている。東側には、標高が300メートルの五月山があり、西側の川西能勢口よりには、小戸神社がある。そこは、私が幼少の頃、通っていた幼稚園が現在も存在する。小戸神社は古記録を調べると、「おべ」の地名で記載されている。これは、織部とか下部(おりべ)の文字が充てられる。奈良県奈良市都祁吐山に下部神社があり、これは、春日大社の分社である。本殿は、背後の山上にあり、もともと拝殿が起こりであり、これは、大三輪神社と同様の最も原初の神社の名残である。川西市鶴之荘付近の小戸神社ももともと下部神社であり、背後の五月山を神体とする拝殿が起源であったと考えられる。律令制度下に於ける神道の思想統制により、古事記、日本書記に出て来る以外の神は排除され(明治時代の神仏分離よりも厳しかったと考えられる)大山津見尊、素戔嗚尊、天児屋根尊が祭神となっているが、もともとは、大山祇神への主祭神であったとみられる。山岳拝礼・岩座信仰が律令制度下に大山津見尊へと統合されていったのだと考えられる。また、境内には江戸時代の記録にもある大楠が神木として祀られている。これは、おそらくは大山津見尊の依代(ヨリシロ)と信仰されて来たものだと考えられる。白龍神社もあるが、これは、延喜式の時代に別の神社であったのが平安期に統合されて摂社化されたのだろう。