大焚火ローゲのほのお神々し
最近は朝から深夜までワーグナーの楽劇のビデオをみてゐる。
神々の黄昏でブリュンヒルデが火に包まれる場面は実に感動的だと思う。
ジークフリートの葬送行進曲の勇壮さにも惹かれる。
フルトヴェングラーのワーグナーはゲルマン精神を代表する表現だと思う。
三流の暮らしについての無為自然の話題、俳句等のブログです。
蝙蝠(こうもり)とは、ここおぶの家に越して来てから親しい友達となった。最初は蝶や鳥だと思ったのが、近くでみると、小さな蝙蝠の群れであった。
地元の中学校の生徒達は、蝙蝠をみても、まったく気にしないというか日常的なものとしてなれているようだ。そんな蝙蝠の句の秀句についてみていこう。
蝙蝠や星の鼠鳴中の橋 言水
蝙蝠と星の取り合わせ。蝙蝠の鳴き声があたかも星が鳴いている様に聞こえるという。
かはほりや古き軒端の釣しのぶ 暁台
釣忍も蝙蝠も夏の季語で、季季重なりだが、実景としてみれば、面白い。「古き軒端」とあるから、蝙蝠が住み着いているような古い家の釣忍のところに毎夜蝙蝠が現れるのだろう。
蝙蝠や賊の酒呑む古館 漱石
泥棒か海賊か、そういった輩の塒に蝙蝠がゐるというオーソドックスな見立てだけど、ここまで抜け抜けと句にされると脱帽です。
雪よけの長き廂や蚊喰鳥 放哉
北国の短い夏に蝙蝠が現れた。雪庇の長く続いている暗闇をふとみると蝙蝠がいた。哀愁の句。
蝙蝠や三十六坊飯の鐘 鬼城
宿坊に暮らしていると、日がな一日暇なことが多い。飯の時間が待ち遠しい。ちょうどその知らせの鐘が鳴る時刻に蝙蝠がやってくる。面白い句。
蝙蝠に一つ火くらし羅生門 龍之介
小説「羅生門」の日常世界が、この句に集約されている。下人なのか、あるいは、衣を剥がれる婆さんなのか、常日頃は、蝙蝠と共に暮らしているのである。
蝙蝠や遅き子に立つ門の母 虚子
帰りが遅い子供を待っている母の姿。そこに蝙蝠が飛んできました。
歌舞伎座へ橋々かかり蚊喰鳥 青邨
宵と言えば、芝居が始まる時刻、歌舞伎座へ向かう橋のそれぞれに、蝙蝠が飛び回っている様子を何気なく詠んでいるのが良い。
河が呑む小石どんぶと蚊喰鳥 汀女
河にどんぶと小石を投げ込むと、そこに蝙蝠がいた。蝙蝠は、川面に発生する小さな昆虫を食べにやってくるので、そういった生態が詠み込まれているし、こんな宵の時間に川に小石を投げ込む女、つまり、待てど暮らせどやって来ない男を女は待っているのである。
かはほりや夕されば希望獲る奇癖 草田男
蝙蝠飛ぶよ己が残影さがしつつ 草田男
草田男は、この2句の中で、蝙蝠に己の姿を投影して詠み込んでいる。特に後者の句では、「己が残影」と詠み込んでいるので、それが明らかに判る。蝙蝠の方向性の無い頼りげな飛び方をそういった心理描写に結びつけているのが面白い。
蝙蝠や袋の町の関ケ原 青畝
関ヶ原の合戦には、長宗我部元親が出陣したが、信長は、「あれは鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと言われている。また、福島正則も関ヶ原合戦に出撃したが、この合戦が終わると弓が袋に入れられる様に役に立たなくなった。もはや必要とされなくなったと、後日家臣に伝えた故実が残されている。「袋の町」とは、天下分け目の戦では、日本歴史の表舞台に立ったが、天下が決してしまえば、蝙蝠が飛ぶ寂しい町になってしまったことを句に詠み込んでいる。難解な句であるが、まぁ、背景を知れば面白い句の一つかな。
蓮の句の秀句を選んでみた。
黒谷の松や蓮さく朝嵐 碧梧桐
全体として句は、散漫な感じを受けるが、この句から受ける印象は壮絶である。
黎明の雨はらはらと蓮の花 虚子
碧梧桐と対照的な情景を描いている。雨はらはらという描写がよい。
水泡の相寄れば消ゆ蓮の花 鬼城
写生の句。最近では、こうした句をみかけるとが、鬼城となれば別。
暁闇を弾いて蓮の白さかな 龍之介
強烈な蓮の花の白さ。あらゆる闇を弾く程の力が素晴らしい。
白うさいてきのふけふなき蓮かな 水巴
「きのふけふなき」という表現が秀逸
白蓮やはじけのこりて一二片 蛇笏
「はじけのこりて」という部分が面白い。
蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ 放哉
当然のことを詠んでいるけれど、「花の朝」ができあがるまでの過程を詠んでいるのが面白い。
白蓮のあまたは咲けど静かなる 秋櫻子
紅蓮はひとつ咲くさへ目にしるき 秋櫻子
この二句は、紅白の蓮の花の性質が全く違うと言っているところが面白い。
眼中の蓮も揺れつつ夜帰る 三鬼
酔って家に帰ろうとすれば、まだ、蓮の花の残像が残っていたのだ。
遠き世の如くに遠くに蓮の華 誓子
この世のものとは思われないという情景を上手に表現している。
蓮散華浮かべるに我慌てけり 耕衣
蓮散華の句は、結構詠まれているが、この場合は、散蓮の様子を描くというよりも、己の様子を含めて描写している客観写生である。