この時期は、何もかも枯れ果てた中で、緑のものが目につくようになる。
江戸城の松の緑をみて読まれた句と思えるが、枯れ芝に松の取り合わせは、いかにも古風である。
そういった効果も子規は狙ったのだろう。
三流の暮らしについての無為自然の話題、俳句等のブログです。
蒔を割るいもうと一人冬籠 明治26年
薪をわっている妹、律の頑なさや気丈さが伝わってくる。
子規は、そんな律の様子に何か、人間嫌いな部分をも感じていたのかも知れない。
寒くなると、薪がたくさん必要になり、薪割りの仕事も大変になる。時には晴れるかもしれないけれど、ちょうど今頃の様に真冬に入るころには、ことさら憂鬱になる。
冬ごもりというは、そういった意味で現実逃避なんだけれど、薪が燃えて温かい部屋の中では、人間の温かさも感じられる。そういった2つの面が、この句には、上手に表現されている。
鵙鳴くや十日の雨の晴れ際を 明治27年
「十日の雨の晴れ際を」というのは、どういう意味か。
十日間、降り続くような秋の長雨を季語では、秋霖という。この句の美しさは、そういった秋霖もようやくやんで、空に一筋に雲が切れて晴れ間が現れた鋭角的な瞬間、ちょうどその時に鵙が鋭い声を響かせて鳴いたという。
この写生句は、碧梧桐がとって丸印をつけている。他の句もあるが、
鳴きながら鵙の尾をふる日和かな
に比べて、強い印象を持っている句なので、碧梧桐が良いと思うのは、当然だろう。
秋高き天文台のともしかな 明治29年
この年に北海道へ東京天文台から日蝕観測に出かけた一行があった。それが、東京天文台初代台長寺尾寿である。当時は、日清戦争後の三国干渉を受けた時代で、米国式の天体観測法の導入が急務。天体観測は、重要な軍事技術でもあった。東京物理学校(東京理科大学)の創立者である。そうあの夏目漱石の坊ちゃんに出てくる物理学校である。寺尾の書生として住み込み。東京大学予備門で学んでいたのが、山座円次郎で彼は、漱石、子規、熊楠、秋山らと同期であった。この様な関係から、子規も出来たばかりの東京天文台を訪れて、山座達と交流もあったのだろう。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 明治28年
この句を坪内捻典先生のクラスで取り上げた時、僕は、アホだったので、
蟹くへば金がなくなり法隆寺
って思わず、つぶやいていたのを、先生は、実に呆れた目で僕を眺めた後で、「本当に金がなくなったので、送れという符帳の句」だったのかも知れないなと冗談を言われたことが記憶に残っている。
もてなしに栗焼くとて妹がやけど哉 明治29年
「もてなしに栗を焼く」とは、それも貧乏臭いが、同時季節の情趣に溢れている。でもそこにやけどという意外性を持ってくることで、この句を面白いものにしている。
「もてなし」について詠んだ秋の句は、この句だけだが、
春
もてなしの筍飯や田螺和 明治32年
夏
もてなしや池へなげこむ冷し瓜
冬
もてなしは薄くてあつき氷かな
冬の句がいささか変わっているが、春、夏、秋とやはり季節に合ったふるまいがもてなしとしてあり、それらを詠んだ句が幾つか見受けられる。
秋の空物干竿の高さかな 明治27年
秋の空は、真っ青に晴れている。冬のどんよりとした空、夏の積乱雲で賑やかな空、春の霞がちな空。これらは、空に色々な「混在物」があるので、空の高さは判りやすい。しかし、秋の空はどうなんだろう。実際に、真っ青なだけ。つまり、一色なので、実際にどの程度の高さなのか判らない。だから、物干し竿が届くという錯覚も起きうる。そういった面白さなんだろうか。
藪椿物干し竿の片日影
幟竿物干竿はふんどしが
時鳥鳴くや物干竿高し
昼顔の物干竿を上りけり
紅葉折て夕日寒がる女哉 明治26年
女が紅葉を折ってから「夕日が寒いわね」と言ったのをそのままに句にした。
女と紅葉、夕日の取り合わせと来れば、文楽の「紅葉狩」という演目を思い出す。紅葉狩りに行き、釣瓶落としに日が沈む。そうしたら、妖魔達が現れるという筋書き。
この場合は、女の妖艶さが、紅葉を折るという所作に現れている。
退廃的な浮世絵師の月岡芳年の世界。
法政大学の子規文庫には、正岡子規が寒川鼠骨介して収集させた中に、「新形三十六怪撰」等の作品も見受けられる。当然、子規は、芳年の絵を高く評価していたそうだ。