まつたりおうぶライフ

毎日の平凡で程度が低い暮らしについてそこはかとなく浮かび来る無駄な話題、俳句等のブログです。

句集

みほとけは頬に指当て春待てり

日常生活の経験を陶冶

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  俳句結社童子の同人として日々目指しているのは客観写生であるが、いかんせんとも、主情を交えた句を日々の句作で作りがちである。童子の同人の方々から、精魂を込めた句集をお送りいただいてまことに恐縮であり、余の書棚には、数多の童子や句友先生方の珠玉句集が安置されており、日々、それらの句集を参考にすべく開いてみている次第である。
 そういった中で今日は、安藤ちさとさんがお送り下さった句集『小さき喉』を開いてみてをる。
 この方の句集を開いてみて感じたことは、客観写生に徹しているということ。日常の出来事を他の俳人の方と同様に詠み込んでおられるが、あくまで、己の存在を客観視されていることに感銘を受けた。
 九州で活躍されてをられるということだが、日々の精進、更に、客観写生を究めた句を期待したいところである。
 特に感銘を受けた句を下記に挙げた次第である。


   船頭の背に影落とす柳かな
   唄ひ手のもう終はりよと盆踊り
   垂直に皿に飛び込む秋の蠅
   各々のしぶきをあげて泳ぎけり
   秋水を静かにかけて鎌研ぎぬ
   湯上がりの廊下に残る寒さかな
   薄氷はがせば水のあふれけり
   天の川盆地は闇に沈みけり
   種袋みな達筆で名を書かれ
   『風土記』より紙魚ぞろぞろと走り出ず
   コスモスに囲まれ赤子泣き出せり
   削られし鉛筆にほふ立夏かな
   甲板に人あふれたる薄暑かな
   浮き島の形のままに草茂る

 いずれも凝縮された客観写生の表現でここまでの写生の境地に達することは、なかなかに困難であるが、日常生活の経験を陶冶し、句に注ぎ込むことの日々繰り返して、これほど表現に達し得たというのは、敬服に値するものだと思う。

句集「あの時この時」黒木千草句集


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句集「あの時この時」黒木千草句集

拝受。

日常生活が珠玉の言葉の俳句として記録されている。
この句集をみて、日常生活を詠むということの重みが感じられた。
吟行を句にするのと違って日々、経験している生活感を言葉にするということで簡単な様に思われがちだが実に難しいことなんだと思いました。

作者は、童子で25年間俳句を作って来られたということ。
その25年間の俳句生活は、同時に四半世紀に渡る暮らしの記録であった。
特に母の死、父の死が記録されている。誰しも経験する人生の通過儀礼として、他人の目からみれば、簡単に言われてしまいがちだが、本人にとっては非常に重たいということは、私自身も母親の急逝により経験した。

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正月をはづしわが母逝かれけり

私の母も昨年の大晦日近い時期に亡くなったが、作者の場合は、三が日を明けてからの母君のご逝去だったのでしょう。

寒晴や母の匂ひの消えゆける
父一人残して帰るちちろかな

これも私の経験したことに重なってくる。母親が先になくなったのも同じ。「母の匂ひ」というのは、子にしか判らない暖かみのある独特の匂ひであり、それは、母親が骸になっても、母親の傍にいる時は感じられるが、火葬にされて昇天されれば、その匂ひや雰囲気は薄れていってしまうものだと感じた。


父から電話一分冬麗

母親を亡くした冬の季節に父から安寧を知らせる電話が入った。たった1分の電話だけれど、それだけで嬉しいものだと感じたのだろう。

はじまれる父の介護や八月尽
秋入日父の不在を実感し

父親も介護生活に入ったのでしょう。施設に泊まってがらんとした部屋の中に居る作者の姿がみえてきます。

冬の夜や危篤の父と二人にて
返事せぬ父に語りて松明ける
相続はこれで完了春北風

とうとうお父様も亡くなられた寂しさが浮かんでくる。

両親はもう居らずして盆の家
入学子再挑戦を言ひ出せる
寒明や山羊当番の娘を送り

両親を見送った心境の句も句集に載せられており、やがて、私も父もなくし、1人ぼっちになるが、そういった未来の状況をみるような気持ちで、句集を読み進む。やはり、親を失った哀しみとは、決別しがたいものがあるが、夫婦子供と五人の家族の暮らしが未来に向けて続いていくそういった希望というのもこの句集を読んで感じられた。

私は、父母を亡くすと信州の弟以外には身寄りはおらず、天涯孤独に近い状態。父親は、目の手術で入院する。刻々と時が過ぎていくのを感じて、この句集を閉じたのだった。


愉しい句集「猫」(訂正しました。お名前を間違えており失礼しました。)

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田代草猫さんから愉しい句集「猫」をいただきました。
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猫のイラストが可愛らしくて、俳句も魅力的な句があり、気に入りました。
ありがとうございました。
句集は、文庫サイズが一番だと思いますね。豪華絢爛なのは、開くだけで恐れ多くて、このように簡潔な装丁の中で、洒落た趣味の意向が凝らされており、手作り感満載です。
僕も句集を作るとしたら、ここにお願い出来ないかなあと思います。
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桜の句が気に入りました。
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喉ぼとけの句も面白いと思いました。
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噴水の句も言い得て妙だと思いました。
僕も俳句が上手になって句集などを出せたらよいなあと思いました。


「捨女句集」

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坪内稔典佛教大学名誉教授を中心とする捨女を読む会編「捨女句集」。捨女とは、寛永十年生まれ、丹波国氷上郡柏原の田家に生まれる。芭蕉よりも11年早く生まれた。29歳の時に『俳諧良材』に初めて句が載る。天和元年に落飾し、元禄元年に庵を結び不徹と庵号を定める。元禄十一年八月十日に死去。

稔典先生は、小西来山句集の時もそうだが、江戸時代の俳人の発掘に積極的だ。戦後の俳句が虚子一色になってしまった時、現代俳句の方向性を求め試行錯誤が行われている。特に女流俳人が現代でどの様な新鮮な表現が出来るかに先生は、興味を持っていらっしゃって船団の会の代表として指導しておられるが、近代の俳人よりも江戸時代の女流俳人の方が、今の人間に比べてずっと濃度の高い人生を生きてきただけあって、興味深い作品を次々と詠んでいるからだと思う。

月のうさぎかつら男の姿かな
花たれてめははなたれぬ藤見かな
いとし子やのせてくらべん宝ぶね
ひいらぎや鬼をとおさぬ戸ばり帳
びしびしと草の戸ざしか霜ばしら
はぎたかくかかげて露の重みかな
夏の月においつく雲の足もなし
遊君かかいどういちの花の顔
つぼめるや草のわずかな花の顔
涅槃会にもかけ離れけりけふの暮れ

江戸時代前期の俳人とは思われない自由な表現に惹かれた。

村杉踏青句集「風見鶏」を読む


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童子関西句会の先達であられます、村杉踏青さんの句集をいただいてから半年が経ちました。
座右において常々、眺めていたのですが、その感想等を書いてみようと思っていたのが、ここまで延びてしまいました。ご免なさい。

踏青さんの句集で関心させられたのは、バランス感覚に優れた句が多いこと。また、少し距離を置いたところから眺めた写生の句が優れている。対象への思い入れも一歩離れて客観的にみようとする態度。さすが、医療という科学的な職業に従事されている人らしいと思いました。また、この人は、ユーモアというのを解する人であり、さりげなく込められた風刺的な心も、かえって句に深みを与えている。

そうそう、関西風の絶妙な薄味の出汁が利いた蛤のお吸い物の様な珠玉の句がこの本には並べられているのだと思います。以下、句集の冒頭から目についた句の感想を述べてみることにします。



1991年~1996年

アネモネの紫のゆれ赤のゆれ

アネモネというのは、実は色の動きを楽しむ花なんだと再認識させてくれる句。
写生句として優れています。

秋天を落ちてくるよなロープウェイ

ロープウエイは傾斜を移動するけれど、地上からみればその角度の錯覚で空から墜ちてくるように見える。そういった情景を上手に詠んでいる。

輪をくぐり消ゆるイルカや水温む

イルカの曲芸ショーの描写だが、輪をくぐって再び水中に戻っていくときにそのなま暖かい肌合いが感じられた。それを水温むに滑らかに結びつけている。巧みな句だな。


野分あと風速計の放心す

野分で狂った様に風速計が回っていたのに、今は、壊れた様に止まっている。それを放心という言葉で表現しているところが面白い。

神農の虎を診察室に置く

大阪の神農さんのお祭りをさりげなく描いている。一般人には、薬問屋街のお祭りだが、作者は、その当事者であるお医者様なのだ。

あの婆さん病院へ来ぬ師走かな

患者さんへの思いやりが感じられる。元気な筈の婆さんは、迎春の支度に忙しいのか、それとも風邪でも引いたのか。

茫々と青野寥々と石の群

茫々とした青野をいけば、やがて寂しげで冷たそうな石の群れに出会う。晩秋の情景がしみじみと感じられる句である。

山の湯の裸身ほのかに五月闇

山の湯と裸身を詠んだ表現は、ほかの作品にもあるが、これは、そこに五月闇を結びつけたのが妖しさが加わっていてユニークな句である。

深草少将の熱情欲しや龍の玉

龍の玉に少将の熱情を結びつけているのが、平安時代の貴族の精神につながるような。

終バスの去りて花野の暮れてきし

花野を逍遙していると時が過ぎるのを忘れる。ああ大変だ最終バスもでてしまっているよ。




町医者

菓子袋開けて叱らる初芝居

芝居が退屈なのでお煎餅かお菓子を食べようとしたら、たしなめられた。そんな何気ない風景だけれど、微笑ましい。

大渦の生まれてまた生る春の潮

実際に鳴門の渦潮をみていると一つの渦が収斂して、また、新しいの次から次へと生まれてくる。そんな情景が面白く表現されている。

しんきくさい祭どすやろ巡幸は

私も「しんきくさい」と祇園祭を思っている。京都の人だから見慣れている。それよりも、この暑さには参ってしまいます。

作り滝つひに燃え出す火山ショー

火山ショーで、最後に溶岩が流れて滝が燃え出す。よくみれば安っぽい仕掛けである。なんども同じのをみていると飽きてくる。そんな皮肉っぽい表現が楽しい。

春障子瀬戸内海に開きけり

瀬戸内の海端の旅館に泊まられたのだろうか。海に開くと言わずに瀬戸内海に開きけりと言い切ったところにこの句の良さがある。


渦潮や淡路の鳶と阿波の鳶

これも鳴門海峡での吟行句だろう。淡路側と四国側にそれぞれ鳶が舞って、漁師の獲物を盗もうと狙っている。面白い句である。

山若葉神戸は海の匂ふ街

素直に神戸の街の情景を詠んでいるところに引かれます。山若葉と海が匂うという取り合わせが秀逸。


わらび餅

この海の身の締まりたる浅蜊かな

浅蜊にもそれぞれの海の味が染みこんでいる。きっと潮の流れ冷たい海なんだろう。浅蜊の身が締まっている。

嶺々の氷河細りし花野かな

カナダで詠まれた句らしい。氷河が高いところから降りて来て、高度が下がると溶けて細くなる。そこに花野が広がっている。雄大な山の自然を詠んだ句。

冬籠二人黙してゐて楽し

冬籠、梅雨籠と、黙するというのは、よくある組み合わせてだけれど、最後に「楽し」と置いたところにこの句の良さがある。

蛤や明石の海の砂吐ける

浅蜊の句と同じような趣の句で、こちらの方が春らしい茫洋とした雰囲気がでている。

朧にて海鳴り遠き一夜かな

この句も朧という状況の中で、遠くで海鳴りが聞こえるという少しサイケな夜の海の状況が描かれているのがよい。

鱧ちりや祇園囃子が遠くより

関西人なんだから鱧ちりや。祇園祭の時期が旬なんである。

山墜つるごと万緑の迫るなり

この句は写生の域を超えている。心に迫ってくる素晴らしい句。


風見鶏

青蔦のまだ届かざる風見鶏

この家は、ずいぶん古いお屋敷なんだろう。下の方は、すでに蔦に覆われてしまっている。それが、上へ、上へと風見鶏まで届こうとしている。風見鶏に届く頃には、自分はどうなっているん

だろうか。時間の経過を感じさせる句。また、風見鶏という風に靡いて方向を変える存在を時間の経過と結びつけることで、その無常観というのを一段と印象づけることに成功している。

夏霧や巨岩の山の修道院

モンサンミシェルを詠んだ句。夏霧の覆われるという不思議な修道院である。記念写真、絵はがきの様な句ともみられがちだが、何かをそれを越えた画家の視点ともいえるものが感じられる句

である。

秋水や笙に従ふ婚の列

秋の婚礼、粛々とした厳かな雰囲気が表現されていてよい。

にこやかに亡き患者来る春の夢

やはり、亡くなられた患者さんの夢をみられるのだな。お医者さんという仕事もやはり、単なる技術的行為、診療を越えた人と人との心のつながりが感じられます。

ミユンヘンのからくり時計秋はじめ

からくり時計、それも本場ドイツのからくり時計をみていると、それは、いかにも初秋の趣きである。この地域の人は、夏の間は、農作業に従事し、シーズンが終わると、今度は、職人に早変わりして、からくり時計、からくり人形等いろいろな仕掛けを作る。アルプスの近い南ドイツの風景である。そこに牧歌的な夏の思い出が込められている。

竹の春百夜通ひの径ここに

深草少将の句はほかにも1句この句集に収載されている。この句は、熱情というよりもむしろ、清々しい竹の春の風景として捉えられているのが面白い。

素戔嗚尊を日本武尊を拝みおでんかな

神社詣の生真面目さが、おでんで惚けてみせるところが面白い句である。

東には葛城西は霞みけり

まるで蕪村の名句の様な作品だ。でも、ここまで居直られると、認めざるを得なくなりますね。

ほかにも名句が一杯ありましたが、これ以上は、書けないので筆を置きます。

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