まつたりおうぶライフ

三流の暮らしについての無為自然の話題、俳句等のブログです。

カテゴリ: 俳論・俳書

13日の午後、芦屋の虚子記念文学館を訪問しました。
実は、童子評論賞で執筆最中の「虚子最後の春~存問から極楽へ」を執筆していて、どうしても判らないことがあったので、なにかヒントになることがないと思って訪問した訳です。
芦屋川駅

最初、阪急芦屋川まで行って、そこから芦屋川を濱の方に下るコースが選びました。
これら間違いでした。残暑が特別に厳しい日でしたのが、芦屋濱についた時には、完全に参ってました。
教会
 

いつも芦屋に来ていいなと思うのは、この教会堂です。
素晴らしいと思います。

芦屋の濱

そのまま道なりに歩いていくと芦屋浜の近くに出ました。
さすがに浜が近くなると、潮風が心地よく秋を感じさせました。

さやけしや芦屋の濱の潮風

虚子記念文学館は、海端のお屋敷外の少し、内側に入ったところにあります。
虚子記念文学館


いろいろと貴重な資料を見学させていただきました。
文化勲章が見事でした。

童子

童子誌が置いてありました。

「あなたどこに棲んでいらして?六甲の句会も是非いかが。」

六甲の句会へとお誘いを受けました。

秋の波聞こゆるところ虚子の館


 

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上田秋成の俳句って面白い。
大坂、曾根崎の生まれで、「雨月物語」の作者としても知られるが、無腸、漁焉等の号を持つ俳人でもあった。

風限水ある迄を落ち葉かな  宝暦3年  漁焉 歳旦帳

秋の季節がいつまでかということを上手に言い表せているのが面白い。

空闇し人の途絶に雪あらし  宝暦4年  漁焉 歳旦帳

「空闇し」とすなわち空真っ暗になるほどの雪嵐になれば人の行き来も途絶えてしまうことだ。まさに陸の孤島状態。江戸時代なれば、なおさらであろう。

魁る鶏は御慶のはつね哉   漁焉


この句など、雨月物語の吉備津の釜のラストシーンに思い起こさせる。吉備津の釜では、鶏が鳴いて夜明けを知らせることで、やれやれほっとできる訳だけれど、実際には夜明けではなくて月明かりに騙されて外に出たら亡霊に取り殺されてしまった。つまり不吉さとの対局に鶏が鳴くということがある訳で、そういった秋成の価値観がこの句にも現れている。

梅さくや馬の糞みち江の南  無腸 安永5年


一茶のような滑稽味が現れていてよい。江南、すなわち琵琶湖の南側の鄙びた田舎の春の風情を「馬の糞みち」と表現している。ほのぼのとした佳句である。

短夜にながき夢殿籠哉   漁焉


夢殿の不思議なところを表している。つまり、時の流れを止めてしまう夢幻の世界である。

冬がれてゆかしげもなき都かな   無腸

華やかな都でさえもゆかしげもないほど、冬ざれた景色。究極の寂しさである。これは、追悼句なので、救いようもない荒んだ心も詠んでいる。

あなかまと青梅ぬすむきぬの音  無腸


「あなかま」というのは「ああやかましい」の意味。「きぬの音」は、女性、遊女を表している。つまり、遊女が、「喧しいわね!」って言いながら青梅を盗んでいる様子。粋な句である。

人や咎む下の借着のわかれ霜   無腸

急な寒さ(別れ霜)なので、下着を借りて(女の家)から帰ろうとするのを咎める人はあろうか。これも粋な句。

目を閉めてあいて又観るさくらかな   


見たとおり、当たり前じゃないのって言われるけれど、桜だから、それも許されるんだよ。

風にはれて笠の軒からよし野雲

「よし野雲」すなわち、これは、吉野山の桜が満開のこと。眩しい春の日を遮る笠の軒から桜の花を眺めているという句。視覚的な表現が見事。

川おとや人香さめてのゆふ桜

これは源氏物語に題材がとられている。空蝉の巻に「かの薄衣は小袿のいとなつかしき人香にしめるを、見近く馴らして見ゐたまへり」とある。空蝉が光源氏のもとを、小袿だけを脱ぎ残して逃れ出てしまう様子が、詠み込まれてしまう。夕桜(女との情事)にうつつを抜かして眠ってしまった。ふと川音が耳に入って目覚めてみると、女(人香)はいなかったという趣向の句。

朝顔に起た心の深雪かな  漁焉


この句も面白い。季節は、もちろん朝顔の季節なんだけれど、目覚めた心は、深雪の様に閉ざされて冷え切っている。

こうしてみると、秋成の俳句というのは、夢想と現実の差を視覚的・感覚的な表現で巧みに表現した句が多いことに気づかされる。でも、それは、世捨て人として、世の中を斜から客観的に眺めることができたからできたのであろう。

すみよいか世を涼しさの忘れ水    漁焉


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春風邪で喉がガビガビ。
冬風邪よりも辛いかも。

在宅なので、今日ばかり助かりました。
仕事の原稿を書き終えた頃、童子4月号が届く。
1階のアトリエで音楽を聴きながら読む。
ここは、レコードと歳時記が置いてある部屋です。

桃子先生のお母様が骨折だそうで、大変でしたね。
句座始の時には、全然そんなことも感じさせず気丈に振る舞われる
ところがさすがだと思いました。僕だと、「母ちゃんの骨が折れました!」で、
もう何もかもキャンセルするところだけれど。

東日本句座始めの記事が載っていたり、拙句がどうゆうわけかお二人から
お褒めのことばを賜るなど、読んでいて照れくさくなりました。

関西句会のみなれたお二人に同人に昇格されて最初の句が掲載されている
のを眩しく眺めた。

踏青さんが、桃子先生のサックスの俳句を賞賛されておられました。
私も似たようなことを下手な言葉で書いていたので、編集長のアドバイスの
おかげで、1頁月評(3月号)の内容を変えて正解でした。

先日のFM放送で、シューベルトのアルベジョーネソナタのギターと
フルート演奏のバージョンが放送されていて面白いと思って録音したのですが、
佐藤明彦編集長も取り上げられているので、ああ、同じことをお考えだと思いました。

今月号の感想ですが、色々な事柄を叙事的に句の中に苦心して詰め込まれている句
等を眺めておりますと、ご苦労様と言いたいですが、結局、いくら努力をつくしても俳句
は俳句なので、やはり、詩歌としてのリズムや色調を大事にする為に最低限のところ
まで絞り込む工夫が必要であると感じました。

そんなんかな。

NHK俳句4月号で面白い小さな記事を発見。

俳句上達へのメッセージというコーナーで、稲畑汀子の「私の初学時代」という記事。
祖父の虚子との触れあいの中で、俳句をどう志していったかという内容。
虚子が述べた俳句に対する心構えの点で、「俳句を志す人は、自分を磨きしっかりとした人間になるよう努力しなければなりません。その為には、今、あなたが置かれている環境でお母様をよく手伝い、自分の務めを果たし、その上で本を読み、あなたの頭で物事を考え、判断する習慣を身につけることです。」という言葉が示されている。

俳句とは、人間と一体のもので、人格が陶冶されないかぎり良い句は出来ないということ。有名な俳人の物まねや技術的な面、あるいは、俳誌、句会の高得点句等を真似てみたところで良い句はできない。

俳句が上達するにつれ、一層、己の人格が句に浮かび上がってくる。だから、ある程度上達するまでは、目覚ましいものがあるが、一定のレベル以上になると、伸び悩むというのは、その人の人間性の問題であるということを示されたものだと思う。

先日、私が身体を壊したのに不摂生なふざけた句を辻桃子先生に見ていただいたところ、この虚子の様な言葉をしたためたお手紙を頂戴したことを思い出した。やはり、ひとかどの俳人は、そういったことを心得ておくものだということを痛感した次第である。



 

牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ

この句の良いところ、当麻寺にお参りされた方はおわかりと思いますが、あの古代の神的世界を幻想させる当麻寺の塔の大きさ、それに比べて牡丹の芽は、匹敵するものとして描かれてゐる点、そこにこの句の素晴らしさがあります。

蟇ないて唐招提寺春いずこ

唐招提寺の仏像群は、仏教彫刻史の中でも異例な暗さ、気味悪さといったものが指摘されています。それは、新しい唐時代の仏教様式と白鳳時代の清廉な美的感覚との乖離によるものでした。そんなイメージを蟇の姿に象徴されている作者の知的センスが感じられます。


梨咲くと葛飾の野はとの曇り

これは、「葛飾の春」と題された作品の中の1句。僕ならば、この作品から選ぶとすれば

ややありて汽艇の波や芦の角

この句の方が、一段と秋櫻子の写生の妙が発揮された句だと考えてゐる。

梨の句では、

梨棚や初夏の繭雲うかびたる

を採りたい。素晴らしい句だと思います。一段と視覚的情景に訴えてきます。

葛飾や桃の雛も水田べり

これも葛飾の春の中の1句ですが、こんな句はどうでせうか。

鳴きのぼる雲雀の影や蛇籠あみ

ここには、春の息吹、生き物のしたたかな生への欲求が伝わってくるのではないでしょうか。たしかに桃の雛の句も晩春の情趣を感じさせるのですが。

鮠釣に水草生ひ出て光りたれ

この句は素晴らしいと思います。父親と鮠釣りに出かけた遠い昔を想い出します。
でも、僕だったら、この句を選びます。

鮎とぶや水輪の中の山の影

この句には、鮎漁の姿を客観写生的に描ききっていると思います。
虚子先生ならば、この句を採るでせう。